渥美大山ヘリ訓練場を撤去させた共同の力 下

自衛隊ヘリパッド撤去運動について安間慎さん(県平和委員会理事)の記事を前号に続きを掲載します。

撤去させたよりどころ

越戸町から大山(328m)を望む(2013年5月4日撮影)、中央少し右の頂上にヘリ訓練場、左手下の鳥居が白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)

越戸町から大山(328m)を望む(2013年5月4日撮影)、中央少し右の頂上にヘリ訓練場、左手下の鳥居が白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)

そのような中、2005年6月11日、ヘリ訓練場の受け入れ承認を求める越戸町の臨時総会が開かれました。「地元有志の会」の人たちは、大いに奮闘しましたが、市長の意向を受けた、市職員の発言と強引な運営で、受け入れを承認してしまいました。しかし、この臨時総会の議論の中で、有志の会とは一線を画す元校長Iさんの次のような発言がとび出したのです。 私(安間)の発言、「防衛省側の条件提示(月3~4回の訓練回数とか村の行事の時はヘリを着陸させないなど)は、守られるはずがない。」 Iさん「『条件提示は誠実に守らせる。守られなかったら破棄できる。』との覚書を市と自衛隊側にさせよう」 Iさんの提案が議決され、「月3~4回」、「自然環境を守る」などの条件をつけ、それを守る。守られなかったら、「『覚書』解除・破棄」=「訓練場撤去」を約束させるという厳しい「覚書」が交わされることになりました。この「覚書」が、今回の撤去の拠りどころとなるとは、私自身も当時全く気付かなかったのです。撤去がほぼ確定した後、「渥美自然の会」が、公文書開示で入手した資料に、左のような自衛隊側の一文がありました(原文のまま)。 つまり、野鳥等の繁殖、渡りなどの時期の関係で限定があること。月3~4回で時間の限定、村の行事や遠足の時期、ハイカーなど人がいたのでは、離着陸できないなどの条件があること。さらに、それらが守られない場合は、「覚書」を破棄・解除し、訓練場撤去もありうる「覚書」が交わされたこと。そのような「制約があること」から(同時に「大山以外にいいところが見つかった」と言ってはいますが)、撤去の決断となったと考えられます。 そして、昨年(2012年)12月の自衛隊からの訓練場断念表明、今年3月、地元自治会として和地(わじ)区総会、越戸区総会で撤去報告があり、両区とも了解し、3月末、市議会総務協議会で「覚書解除」が報告され、近く、自衛隊側と田原市で正式に「覚書解除=訓練場撤去」の手続きがされることになったのです。

「渥美半島・大山ヘリ訓練に反対する会」(平和・民主団体で構成)もがんばった 「大山ヘリ訓練場問題を、日米軍事同盟の観点でみるべきだ。大山を島と見立てて『島嶼(とうしょ)訓練』をしようとしている。戦闘ヘリの重要性が強調されている」などの観点から、2005年見出しのような会が発足しました。小泉親司さん、八田ひろ子さんなどの調査登山、そして06年1月15日頂上訓練場を囲む「人間の鎖」がとりくまれました。県平和委員会理事会(2013年2月24日・岡崎)での私の報告に、出席者から「議事録のやり取り、その中で元小学校校長の発言に迫力があった。保守層と農業後継者の立ち上がりは感動的」との発言。また、別の方は、「オスプレイのたたかい、辺野古のたたかいも、地元、平和団体、自然環境、レク団体などの共同の力でがんばっている。大山の取り組みも同じで、それで勝利した。全国の基地撤去、機能強化反対の運動を大きく励ます」と言ってくれました。  いつヘリ訓練が強行されるかわからないという状況の中で、なぜ撤去を勝ち取ることができたのでしょう。  第1に、先に述べたように「共同の力」です。 第2に、もうだめなのではという中で、元校長Iさんの発言で、「覚書」が交わされました。アピール署名運動は生かされました。どんな時もそうですが、運動には、ひとつも無駄がないということです。 第3に、平和運動の観点を堅持し、平和・民主団体が原則性と柔軟性を発揮したことです。大山は、今、野鳥の声の響く自然 豊かな、平和で神聖な山としてたたずんでいます。 子どものころ大山で遊んだという村の人たちに会うと、「よかった。よかった。あんたたちのおかげだよ。」といわれます。 私は今、「大山大好き!」と大見出しにしたチラシを作り、そして届けた「あの時」を感慨深く思い出しています。(終わり)