地球的規模でものを考え、運動は草の根で(会員紹介「私の平和運動」  田原 安間慎)

戦前と戦後の橋渡しの世代

私の戦争体験は、名古屋空襲の1945年3月、3歳の時の昭和区御器所、母の実家の防空壕の中でした。庭の防空壕のカビ臭いにおいと、空襲警報の繰り返しのサイレン、真っ赤な空、そして祖母の膝の上で大泣きをしている自分がいました。

私の戦争体験は、ただそれだけです。私の尊敬する被爆者の沢田昭二さん、東京空襲の早乙女勝元さんは、私よりちょうど10歳年上の88歳です。鮮明に覚えてみえる広島原爆と東京大空襲。「戦前と戦後の橋渡しの世代」、私の平和活動の原点が、そこにあります。

1959年、高校2年生の修学旅行は中国・四国地方でした。楽しい修学旅行の中で、広島原爆資料館での衝撃は今でも忘れられません。ある時の愛高教の平和教育の学習会で、ある研究者が言いました。「平和教育は感性から知性へ」。高校2年生でのヒロシマとの出会いは、まさに感性的な衝撃でした。それは後のちの平和教育実践の知性に至るエネルギーだったような気がします。1960年の安保闘争を大学1年で体験し、私は17歳のヒロシマとの出会いから10年後の1969年8月6日午前8時15分、原水爆禁止世界大会の豊橋市平和委員会の代表として広島の街に立ち、黙祷をしていました。その時、私は体の許す限り被爆地(広島か長崎)に被爆の時間に立とうと決意しました。昨年で51回、欠かさず続いています。

赴任先高校での衝撃

この1969年は、結婚し渥美半島に住むことになりました。そこでは半島内の被爆者を渥美病院の看護師さんや農村青年たちと訪問するとりくみ、愛知県で最初の過半数署名を全戸訪問で達成したアピール署名のとりくみ。とりわけ力を入れたのは高校生平和ゼミナール(東三河平ゼミ)の取り組みでした。

勤続19年間の福江高校から、1988年、豊橋工業高校に転勤、豊橋市が空襲を受けていること、そして豊橋工業高校が豊川海軍工廠への学徒動員で42人もの犠牲者を出していることに衝撃を受けました。草の根平和運動は「自分の住んでいるところ、働いているところから始まる」に確信を持っていた私は、直ちにこの二つに手を付け始めました。
一つは当時の三河市民生協に呼びかけ「豊橋空襲を語りつぐ会」、転勤1年で結成にこぎつけました。生協そのものが事務局を担ってくれる盤石の組織体制です。

二つは、工業高校の42人の戦没学徒の遺族を生徒が訪問し、犠牲となった「先輩」の遺族から聞き取り調査をし、文化祭で発表するとりくみです。生徒の発案で遺影も集めら
れ、みごとな自主的な発表が行われました。

戦死した義父の足跡を追って

ところで先に述べた、1969年の私の結婚は、戦没者(戦死した兵士)の遺児の女性とのものでした。結婚後同居した義母は私に夫の海軍手帳を示し、「回天」5基搭載の「イ361潜水艦」の乗組員で沖縄戦の特攻作戦時に米艦載機の攻撃で撃沈、生後4か月の娘をのこして戦死したこと。海軍手帳は、その一部を切り取って秘かに信頼できる陸上勤務の基地員に託し、検閲を逃れて娘、妻、両親あて遺言が書かれていると、その手帳を見せてくれました。

やがて私たち夫婦は、その手帳を読み、伝える語り部となりました。
さらに届けてくれた基地員を探す事、81名の乗組員の遺族を探すことを始めました。そして、つい2年前から劇的な展開がありました。届けてくれた基地員は妻が下関で存命で、その家族との交流が始まっています。また乗組員は1名、当時21歳の若い兵士の遺族が見つかりました。

安保改定60年、あいも変らぬ「75年の平和は日米同盟と抑止力のおかげ」(安倍首相)に対し、「いや75年の平和は憲法九条と戦争の悲惨さを語り続けた力のおかげ」に確信を持って「調べ・学び・伝える」活動にまい進したいと改めて決意しています。