歴史

これまでの歩み

  • 結成

    アジアの人々2000万人、日本国民300万人の命を奪った日本による侵略戦争(アジア・太平洋戦争)のあと、私たちの先輩は、“戦争はもう繰り返さない”と誓い、その思いは日本国憲法9条に結実しました。

    しかし間もなく世界では、アメリカとソ連を軸とした「東西対立」が強まり、再び戦争の匂いがたちこめました。こうしたなか、ピカソやキュリーなど世界の著名な文化人や学者の呼びかけにより、1949年にパリとプラハで平和擁護世界大会が開かれ、日本においても平和擁護日本大会が開催されました。この大会を契機に「日本平和をまもる会」(現在の日本平和委員会)が結成されました。これと同時に愛知でも、平和擁護愛知大会が開催され、「平和を守る愛知の会」(現在の愛知県平和委員会)を結成。以来、「あらゆる人々の平和の願いをもとにし、戦争と侵略の政策、すべての他民族支配に反対し、日本と世界の平和の確立に寄与すること」(日本平和委員会規約第2条)を目的に、市民の手で草の根の活動を進めています。

  • 市民の手で時代を切り拓く先頭にたって

    アジア・太平洋戦争の終了後、米軍による占領のもとで、平和運動とりわけ反核運動は「反米的」としてレッドパージの弾圧下に置かれます。そんな中で勃発した朝鮮戦争では、アメリカが核兵器の使用準備を進め、世界平和擁護大会常任委員会はストックホルム・アピール署名(核兵器の禁止を求める署名)を呼びかけました。厳しい米軍の弾圧のもと、労働組合をはじめとした様々な全国組織が組織的な署名運動に取り組みない中、平和委員会は地域の様々な団体に呼びかけながら全国で署名運動を展開し、約640万筆の署名を集約しました。世界中で集められた署名は5億筆を超え、アメリカに核兵器の使用を断念させました。

    その後、1954年の3.1ビキニ事件(米軍による水爆実験)を契機に日本の反核運動が国民的な規模で広がった時も、1960年の日米安保条約・サンフランシスコ講和条約締結時のいわゆる60年安保や1970年の70年安保、ベトナム反戦運動、そして最近では、1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争やこれに連動した自衛隊海外派兵の動き、有事立法や憲法改悪の動きなど、その時々の平和と戦争の問題で、様々な団体に呼びかけながら先頭に立って、草の根の運動を展開してきました。

    また、1971年には、当時の愛知県平和委員会会長であった故・新村猛氏が愛知県知事選挙に立候補し、名古屋市内では多数派を獲得する善戦。1973年の本山名古屋革新市政誕生の先鞭をつけます。当時の愛知県平和委員会は、いわゆる社共共闘(当時の社会党と日本共産党の共同)の橋渡し役として、ブリッジ共闘の先頭に立ちました。

    現在でも平和と戦争の問題について、少しでも幅広い共同を広げるために、草の根の共同行動を広げるために努力しています。

  • 青年学生の平和運動をリードして

    いつの時代も、社会を動かす原動力になるのは、未来を担う青年達です。愛知県平和委員会では、1970年代から愛知県学生平和委員会協議会(各大学の平和委員会の協議会)を組織し、学生たちの取り組みを進めてきました。この流れを引き継いで、1989年には愛知県平和委員会青年・学生部を結成、湾岸戦争やPKOへの自衛隊派遣、イラク戦争、核兵器廃絶の取り組みなど、様々なテーマで県下の青年学生平和運動の共同を呼びかけるとともに、アンケート活動などを通じて、若者の意識に沿った運動を展開してきました。

  • 21世紀を核も戦争も無い市民が主役の時代にするために

    21世紀の今日は、国際的には、核兵器廃絶、国際紛争の平和的解決、民族自決権擁護、外国軍事基地撤去・軍事同盟解消を、国内では、憲法9条守れ、非核3原則の厳守、米軍基地撤去・日米軍事同盟解消、侵略戦争の反省と戦後補償の実現などが大切なテーマと考えて活動しています。