東南海地震犠牲者を追悼する集い ~1988年建立から25周年~
12月7日13時15~45分、名南ふれあい病院追悼記念碑前で、追悼する集いが開かれました。司会を担当された名南会専務理事の西本義弘さんの開会の言葉を皮切りに、追悼記念碑の管理3団体の代表、名南会副理事長の早川純午医師、国民救援会南支部支部長の石塚徹弁護士、県平和委員会の矢野創事務局長があいさつされました。当時三菱重工道徳工場労働者の村松寿人さんがあいさつ。旧熱田中学校から動員されていた太田栄蔵さんが「隣で仕事していた同級生は助からなかった」とのべたのち、得意のハモニカを演奏されました。
三菱重工業は、アジア・太平洋戦争のため、紡績工場を接収し、軍事航空機を製造していました。建物は航空機製造のため工場の柱を取り除き運用されていました。そのため、1944年12月7日13時36分に起きた東南海地震では、屋根がくずれ、強制連行され働かされていた朝鮮人6人を含む、多くの方が犠牲にあったのです。 地震が起きた時間に黙祷し、参加者全員が献花しました。最後に三菱女子勤労挺身隊訴訟を支援する会事務局総務の小出裕さんが閉会の挨拶をされました。記念碑も持つ意義を述べられたので、そのあいさつを紹介します。
「戦争する国家が、多くの尊い命を奪い人生のかけがえのないストーリーをむごくも消し去ってしまいました。碑面に刻まれた約60名の尊い命が奪われてから69年経ち、追悼碑が建立されてからは25年が経ちました。国権の最高機関における、主権者国民を冒涜するがごとき情勢と関連して、碑面に刻まれた『悲しみを繰り返さない』という言葉、『真実を刻む』の言葉が、今年の追悼式ほどまぶしく、輝いて見えることはありません。 また、この言葉は、尊い命がわたしたちに伝える、共通した【遺言】であるに違いないし、わたしたちの【決意】にしたい、との思いを、今年はことのほか強く感ずるのですが、いかがでしょうか。ふれあい病院の地に移設されてから、すでに1年経ちました。病院及び管理者団体の御配慮で、この追悼碑の空間が整備され、韓国からの訪問者を含め、世代をこえた多くの 訪問者をお迎えしているとのことです。この追悼碑は、日本の現代史の中でも特記される、大事件の記録としての追悼碑、社会的にオープンにされた記憶の道具としての追悼碑、次世代への伝言と継承のための追悼碑、さらには隣国との友好と連帯のシンボルとしての追悼碑などなど、いろいろの意義を加えながら、ここに建ち続けることを期待しています。」