半田市の非核平和宣言運動から学ぶ
月末、佐藤明夫(半田空襲と戦争を記録する会代表)さんから、私宛に「非核平和都市宣言の歴史をさぐる―半田市の事例を中心に」という、A4版5枚の論文が届きました。私は、これは「平和行政を求める運動」に非常に参考になると思い、機関誌編集部に掲載を提案した結果、筆者の了解を得て、本紙にその1部(紙幅の関係)を転載することになりました。なお、転載箇所の選択は、髙橋が筆者と編集部から一任されました。
佐藤明夫さんは、はじめに「筆者は、非核平和宣言第一号の半田市に居住し、1981年に半田空襲と戦争を記録する会を立ち上げたことからこの問題に関心を抱いていたので、把握している事実と考察をこの機会に紹介したい」と述べ、1、非核平和宣言の背景 2、初期(50年代)非核平和宣言運動 3、1963年愛知県平和宣言の評価 4、1980年代の非核平和宣言都市運動 5、半田市の93年非核平和宣言とその実践 6、半田市の平和事業と市民平和運動という6つの章立てをし、論述しています。今回は、6、を1部カットして紹介し、筆者の「おわりに」で締めくくりたいと思います。(髙橋 信)
「半田市の58年非核平和宣言後の平和行政は、限られていたが…継続的な平和事業が実施された。第一に、総務部総務課に平和事業担当職員が兼任ではあるが配置された。…」第二に、平和事業を予算化したことで市民の要求を反映しやすくなった。第三に、例年行事として、原爆写真展の開催、中学生の広島への派遣学習、平和ポスターの募集を実施した。このような平和事業をさらに充実させたのが、市民団体の働きかけである。半田空襲と戦争を記録する会(以下、「記録する会」)は、95年にそれまでの調査記録を集約して『半田の戦争記録』を出版することが非核平和都市宣言の事業にふさわしいことを理由に申請した。市は「記録する会」に執筆・編集を委託し、経費を負担して半田市の発行とすることに合意した。この方式は、2006年の『続半田の記録』、2015年の『半田の戦争記録第三集』の出版にも継承された。また、担当者と「記録する会」との話し合いによって、2006年から市内戦跡見学会が例年行事として始められた。市が参加者を「市報」で募集、経費を負担し、「記録する会」が企画、ガイドする方式で現在まで継続し、好評である。2009年から市内小学校への出前平和授業も開始されている。総務課が募集し、「記録する会」の会員が、「半田の戦災」をテーマに証言や説明を行い、これも好評で毎年、5校程度で実施している。毎年、原爆展に併設する「半田空襲写真展」は、「記録する会」が資料を提供して実施され、赤レンガ弾痕遺跡や戦争関連碑の案内版設置は「記録する会」の要望によるものである。半田空襲開始の7月24日10時半にサイレンを奏鳴することも2015年実現した。けっして十分な平和事業ではないが、…市民団体である「記録する会」との協同行動が実現しているように思われる。
おわりに
非核平和都市宣言のルーツは、1958年の半田市をはじめとする5自治体であり。原水爆禁止運動の過程で非核自治体運動として始まったことを確認しておきたい。非核平和都市宣言実施都市は、2015年現在で全国で1587都市、愛知県内で37都市と発表されている。本来は少なくとも愛知県内37都市がどのような平和事業を行っているかを論じなければならないのですが、… この課題は若い研究者に期待したい。ただ知るかぎり、県内では平和都市宣言を決議したが、原爆展の開催程度の定番の事業に終わっているという都市が多いようである。それでは宣言が「棚の上の餅」になってしまう。そうさせないためには、…自治体と市民(団体)の協同行動によってこそ非核平和宣言が活きるのである。半田市の経験が教えるところである。