渥美大山ヘリ訓練場を撤去させた共同の力 上
昨年12月に渥美半島の大山にある自衛隊ヘリパッドの撤去が決まりました。その撤去運動を推進してきました安間慎さん(県平和委員会理事)に経過を寄せていただきました。今号と次号の2回に分けて掲載します。
~我が家の真上にヘリパッドが!~
渥美半島の最高峰(328メートル)の大山は、地元では「越戸(おっと)の大山」と親しまれています。その大山頂上には、旧日本軍、戦後は自衛隊の無線中継所がありました。それがデジタル化に伴い撤去され、その跡地約1000平方メートルに、陸上自衛隊ヘリ離着陸訓練場・ヘリパッドの話が持ち上がったのが、2003年3月ですからちょうど10年前のことでした。
我が家は、「田原市越戸町」という住所からもわかるように、大山のふもとにあり、集落の中で一番頂上に近いところにあります。20代から平和運動をしてきた私の家のすぐ上にヘリパッドができる。この話が持ち上がったとき、私は44年の私の平和運動の経験を、活かしてがんばろうと決意しました。
~総選挙の真っ最中、突然の撤去報告~
2012年12月7日の総選挙の真っ最中、くしだ真吾候補の選挙事務所にいた私に、ヘリ訓練場反対でがんばってきた和地(わじ)の元自治会長から電話が入りました。その内容は、12月5日、名古屋防衛施設支局から、訓練場の話が持ち上がってからの歴代自治会長と現自治会長が集められた。その場で、「大山はヘリコプター訓練をする上では、あまりにも規制が多く、訓練場を断念する。用地は財務省に返還することになる」とのことでした。
刈谷市の米軍依佐美基地撤去でがんばってきた串田親子、そのくしだ真吾さんの選挙カーが渥美半島に入っている時に、このニュースが飛び込んだのです。選挙カーのくしださんに携帯入れ、喜び合い、「このビッグニュースを演説の中に入れて」とお願いしたのはもちろんのことです。
話が持ち上がってから10年、鉄塔が撤去され、訓練場の芝生のヘリポートができてから7年、一度もヘリコプターを降ろさせることなく撤去を勝ち取ることができました。国や防衛省相手に完全勝利です。
~反対のとりくみ~
このたたかいの教訓は、地元、自然環境団体、ハイキングクラブ、平和団体などの共同の力です。それぞれの団体が、励ましあい、時には競争のようにビラを出し合い、がんばってきました。
自然環境団体は、渡り鳥のルート、オオタカ、サシバなどの繁殖に影響する、原生林を守ろうなど、署名や学会での訴え、日本野鳥の会、WWFジャパンなど世界的な自然環境団体に署名や決議をよびかけるなどのとりくみが展開されました。この詳細は、「渥美自然の会」のホームページをご覧ください。
渥美ハイキングクラブは、大山の登山道を整備し、「多くの人が大山に登るのが反対運動です」とよびかけ、独自で市に反対の陳情も行っていました。
地元のとりくみは、話が持ち上がったその年の内に「大山ヘリ訓練場に反対する地元有志の会」を結成しました。私を代表に40代の農業後継者5人が名前を出してくれました。騒音と事故、遠足でも登る山、地元では、お寺が1つ、神社が3つもある神聖な山を守りたい、とビラをつくって訴えました。
そして、この年(2003年)の12月、彼らは分担して、越戸町95戸の家を一軒一軒まわって、署名をもらいにがんばってくれたのです。
ここで活きたのが、1985年に呼びかけられた国民過半数をめざす「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」運動」の経験でした。合併前の旧赤羽根町は約6千の人口で、愛知県で最初に過半数を達成した自治体です。それも、全戸をまわり、事前に署名用紙を配り、翌日に回収する。その署名用紙は、住所を一つ書いて、下に家族全員の名前が書けるようになっている一軒に一枚の「家族署名」です。この「家族署名」方式を使いました。「安間さんはまわらんでもいい。俺らがやる。そのほうが(署名が)取れる」と言ってくれました。そして、95戸をいっきに周り、70%の家の反対署名を集め、市長に手渡しました。新聞も写真入りで大きく報道しました。そして翌2004年1月の防衛庁(当時)側の住民説明会では、新聞が「紛糾」と報道するほど、若い農民が質問や意見を述べました。(次号へつづく)(田原市平和委員会 安間慎)