ノーモア被爆者あいち訴訟 証人尋問 ~被告の国は被爆者の思いに背を向ける~

入廷直前の被爆者 7/15 裁判所前

入廷直前の被爆者 7/15 裁判所前

ノーモア・ヒバクシャあいち訴訟、勝利判決を勝ち取るための山場、原告3名(川本さん、高井さん、森さん)、浅海医師(民医連被ばく問題委員会、北病院)、沢田昭二さん(被爆者、名古屋大学名誉教授)の皆さんに対する証人尋問が、7月15日~17日に行われました。
3日間あわせてのべ200名をこえる方が傍聴、尋問の内容も、国側の反対尋問のお粗末さが際立ち、これで勝利判決を確信したとの言葉も出るほどでした。

裁判は、12月10日に結審することになりました。
この日に向けて、弁護団はこれまでの主張をまとめた最終準備書面を作成します。
私たちの支援も一回り二回りと広げ、被爆70年の今年に、裁判所勝利、原爆症認定基準の抜本的改定を勝ち取り、日本の政府が核兵器廃絶に向け、唯一の戦争被爆国としての役割を果たす転機となるよう頑張りたいと思います。

●川本信夫さんの尋問
川本信夫さんは、被爆当時は13歳でした。
元気な子どもで、川遊びをしようと、船から川に飛び込んだ瞬間に原爆が投下されました。
しばらく川に浮いていて、川辺にあがったときに、友達から背中が真っ赤になっていると言われました。
お父さんは八丁堀付近に家屋疎開で出て行っていましたが、顔面が白くただれてやけどし、ひどい格好で現れ、19日に亡くなりました。
川本さんは、鼻血や下痢、体調優れず吐き気などの発生していました。
戦後、川本さん一家は親戚を頼って長野に転居しました。
しかし、被爆者とわかると差別を受け、体調が悪く休んでしまったり、鼻血を頻繁に出すことから周りから疎んじられたりしました。
名古屋に出てきてからも苦労ばかり、結婚をしても、子ども達も差別を受けることは避けようと婚姻届けは出しませんでした。
被告国側の質問は、心臓の病気が他の因子が原因でないかとしつこく聞く嫌らしいものでした。

●森敏夫さんの尋問
森敏夫さんは90歳。理不尽な国側代理人の質問にも、毅然として答えられていたのが非常に印象に残った尋問でした。
主尋問では、原爆投下により、3メートルか4メートル吹き飛ばされ、胸が負傷し、ガラス片がたくさんおしりなど身体の中に刺さった状況、衛生兵が、ナイフで竹をきってガラス片を取り出してくれたことが今生きている最高のたまものだと語られました。
その後、黒い雨を受け、脱毛、下痢、紫斑などが発生した状況や、戦後、ずーと目が見えにくかった状況を語られました。
被告国側代理人の反対尋問では、重箱の隅をつつくような70年前の出来事の詳細を聞き出そうとしたり、「副腎皮質ステロイド」を何の説明もなしに使ったことがあるかと聞いたり、森さんから、逆に叱責を受けるような尋問内容でした。

●高井ツタエさんの尋問
高井さんご自身の被爆体験、またお姉さんである山田初江さんに関する話をして頂きました。
さすが、高井さんは被爆体験を様々なところでお話しされているだけあり、裁判官の心を打つ素晴らしいお話をして頂きました。
私が直前にお話をさせて頂いた時には、高井さん、前日は緊張してなかなか寝られなかったと話されていたので少し心配していましたが、全くの杞憂でした。
今回の裁判で国側は、そもそも高井さんと山田さんが8月9日当日に爆心地近くまで入市したこと自体を否定しています。
高井さんのお話では、いとこや幼なじみを心配して父親や山田さんと一緒に爆心地付近まで行ったこと、人混みや煙がものすごく、到底人を探せる状況ではなく諦めて帰ったこと、途中で服が焦げて倒れている人がいたことなど、迫真性をもって当時のお話をして頂きました。
裁判官も今回の高井さんのお話を聞いて、入市したことを否定することはできないだろうと確信しています。

●浅海医師と澤田さん
浅海医師の証言は。被爆者の症状を丁寧に分析し、国側の爆心からの距離や発症が加齢によるものに対する反論でした。
澤田昭二さんの証言は、被爆の実相を科学研究の結果で証言しているのに、国側に有利な他者の論文からの反論で反論になっていませんでした。