会員紹介「空襲の記録と記憶から」 小出 裕 日朝協会愛知県連合会事務局長

国のあり方 問われる公的資料

夏の「戦争展」が近づくと、関連資料に向き合う機会が多くなる。
約一万三千といわれる愛知県下の空襲戦災死者を、「お名前で確認しよう」と、二〇〇二年に始まった調査活動で、ようやく判明率が約六十%になった。もちろん、「戦争展」をささえていただいている方々の協力のたまものである。

ことしの会場展示の可否や展示方法がどうなるかは別として、展示タイトルを、「戦災空襲死者名の平和行列~国立公文書館所蔵データをひらく」と予定し、準備中である。

ここでいう国立公文書館所蔵データとは、「平成」末期、厚労省から国立公文書館に移管された膨大な資料群の中にある、旧国家総動員による死亡者資料のこと。戦争犠牲者の遺族らからの相談や問い合わせに応えていた、全国の各級行政機関窓口のデータの総体といっていい。大分のもので、検索を重ねて、その中から愛知県関係の個人(故人)にたどり着くまで、作業は難儀をきわめる。

それらが、行政窓口におかれていた当時は、プライバシー保護から、一般市民には伏せられていたデータであったが、公文書館のお蔵入り後は、そのタガも外れたようである。「すでに過去のモノとなった」ということか。

八月の「戦争展」では、その「旧国家総動員による死亡者資料」を、戦争展運動の中で、絶対視しないで紹介してみようと考えている。というのは、日本政府による戦後処理をうたった「援護行政」の不条理が、そのまま表現され、国のあり方が問われ、近隣諸国との関係をそこなう扱いがされているからである。

つまり、このデータには、付近地域の「民間」犠牲者の名がなく、動員中に起きた東南海地震‥三河地震などの自然災害による犠牲者名もなく、不発弾事故による死者、労働災害の犠牲者、病死者の名も見つからない。

さらに、1952年サンフランシスコ平和条約発効とほぼ同時期制定の「援護法」の国籍条項により、日本国籍以外の徴用工や動員学徒の死者が外されている。どれもこれも、「戦後処理」の名にふさわしくないのだ。

『あんなこと、もうないよねっ』

私は一九四一年四月生まれ、米軍の名古屋空襲は三~四歳の時期。それでも、「怖い。嫌だ、逃げよう!」の感覚は持ち合わせていた、と思われる。というのは、真っ赤に染まる東の空がこの年になって、いまだ眼に焼き付いているし、自宅に掘られた防空壕に飛び込んだとき、鼻にツーンときた土カビの臭いは消えることがない。また家族の背に負われて逃げ回ったとき、履き慣れた大事な布靴が脱げたが、「拾って!」とも言えなかった、必死さと悔しさが未だ遺っているのだ。

戦争が終わったとされるある日、「あんな怖いこと、もうないんだよねっ」と相づちをある大人に求めた。しかし、その大人の答はこうだった。

「そうだといいが、ワカランなあ」。

その日から、大人たちを見る目がすこしばかり変わったことも記憶している。