東南海地震犠牲者を追悼する集い
12月7日、名南会ふれあい病院にある追悼記念碑の前で、追悼する集いが開かれました。
名南会、国民救援会南支部、平和委員会、名古屋三菱・勤労挺身隊訴訟を支援する会などから45人が参列しました。今年は戦争法案に反対した各党に案内状を送付しました。参列・挨拶は日本共産党すやま初美さん、緑の党東海尾形慶子さん、社民党平山良平さん、メッセージは民主党近藤昭一さんでした。また、愛知韓国民団事務局長姜裕正さんのメッセージが紹介されました。東南海地震発生時刻13時36分に黙祷し、献花しました。
当時、三菱道徳工場に勤務されていて、名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会の村松寿人さんの訴えを以下に紹介します。
【村松寿人さんあいさつ】
戦時下一九四四年一二月七日発生の東南海地震に私は三菱名航道徳工場で遭遇した。レンガ造りの紡績工場が軍用機の製造工場に転換し作業効率のため工場内の隔壁を取払った上に、レンガ外壁の直下に多数の防空壕が掘られ工場建屋の構造を脆くしていた。
M7・9の巨大地震に工場は一挙に崩壊した。激震を空襲と錯覚し多くの人が防空壕に飛び込み崩壊したレンガ壁で生き埋めされた。また、天井の落下や機械の倒壊を受け犠牲になった。
犠牲者約六十名は現員と新規徴用工、勤労動員学徒や当時植民地の朝鮮半島から強制連行されてきた少女の挺身隊員であった。軍機保護法のもとでこの災害の真相は隠蔽され、救援活動などは皆無であった。
日本のアジア侵略戦争がなければ、紡績工場が軍需工場に転換され工場の構造を脆くすることもなかった筈だ。日本の植民地政策がなければ朝鮮人少女が危険な工場に連れられて来ることもなかった筈だ。
犠牲者はすべて戦争と植民地政策に関わるものであった。体験者として挨拶を求められた私は新安保法強行の今日的情勢を考える時、歴史の教訓を深く学ばなければならない。
強行された戦争法の廃止のため野党の共闘で国会と政府を変えることを野党各党を代表して列席した方々に訴えた。「野党間に大異があっても憲法を破壊し戦争参加をめざすという安倍政権の『超大異』に対して立憲主義の立場に立てば『大異』の側は共同することが求められている。その背後に国民の強い願いがあり、戦争で命を奪われた方々に対する慰霊の道でもある」と考えます。