会員紹介 高橋 信 理事長 安保法制違憲訴訟での意見陳述

7月10日名古屋地方裁判所で行われた「安保法制違憲訴訟」第8回口頭弁論では、高橋理事長が意見陳述を行いました。意見陳述の前文を紹介し、会員紹介とします。

私は1942年7月21日、工場密集地帯である熱田区池内町(東邦ガスの正門横)で生まれました。1945年3月12日と3月19日の米軍の空襲により工場が被災したため、家族住宅のみ瑞穂区松栄町に引っ越しました。私の記憶は、そこでの空襲の恐怖からはじまります。空襲警報の度毎に、祖母、身重の母、私の順で何回も防空壕を出入りしました。夜の闇のなかで鳴り響いた空襲警報が「怖い」音として、3歳の脳裏にもしっかりと刻まれ、今でも消防自動車やパトカーのサイレンを聞くたびに「怖い」記憶が蘇ります。

さて、戦後日本の最大の政治課題となった「60年安保」は、当時高校3年生だった私たちにも、安保条約改定によって「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険性が増えるのではないか」と身近か問題となりました。当時、先生たちは、連日のように「安保改定」反対デモに出かけ、私は連日、安保問題を詳細に報じるTVニュースに釘付けとなりました。5月19日、岸内閣が警察官を導入して衆議院で強行可決をしたことに強い怒りを覚え、岸首相の私邸にまで押しかけるデモに思わず「がんばれ」と声援を送ったことは、今でも忘れられません。

翌1961年、私は東京の私立大学に入学しました。当時学内には、「60年安保」の余韻が強く残っており、それはベトナム戦争や日韓会談に反対する平和運動に受け継がれていきました。そして私も徐々にそうした平和運動に参加するようになりました。
私は入学時には翻訳家を目指して文学部「英文科」か「独文科」を専攻することにしていましたが、こうした経験から「戦争を繰り返さないためにはしっかりとした歴史教育が大事だ」と、高校の世界史教師に志望を変更し「史学科・西洋史」を専攻しました。
もう一つ私の教師志望に大きく影響したのは、三重県の漁村で高校教師をしていた兄の英語の教師として、演劇部の顧問として生徒とふれあう姿に感動したことです。

さて、私は、卒業後2年間の非常勤講師を経て、1967年4月から愛知県立高校の歴史の教師として歩みはじめました。教師になり、生徒と向き合う中で、教育基本法の理念が次第に心に染みこんで来ました。とくにその第1条(教育の目的)にある「真理と正義を愛し」、「個人の価値を尊び」、「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神に充ちた心身共に健康な国民の育成」という4項目でした。私が重視した平和教育は、まさにその具体的実践だと確信を深めました。しかし、現実には、「東の千葉、西の愛知」として国会でも取り上げられた愛知の「管理主義教育」や「ゼロ時間や七時間目の設定」、「補習をしない教師は、教師にあらず」という受験教育の嵐、さらに「平和教育=偏向教育」というレッテルが張られ、愛知では広島への修学旅行さえも敬遠する動きも生まれました。
そうした流れに抗い、修学旅行付き添いで行った広島原爆資料館や1980年8月、友人と一緒に訪問したアウシュビッツへの平和の旅などを通して、「この目、この耳で事実を確認する」ことの重要性を痛感していきました。そうした認識を深めつつあった私は1985年春、熱田高校に転勤しました。1953年に設立された熱田高校は、アメリカ軍が世界で最初に「2㌧」爆弾を投下した「熱田空襲」(1945/6/9)の跡地だったのです。

この熱田高校への転勤が契機となり、歴史担当の同僚らと戦時下航空機生産のメッカといわれた愛知県にも「朝鮮人強制動員があったはず」という仮設を立て、調査活動をした結果、三菱重工名古屋航空機製作所からそれを裏付ける「殉職者名簿」を入手しました。その名簿を基に、韓国に足を運び調査を続けた結果、年端も行かない13歳から17歳の約300人の少女が、「日本に行けば女学校に入学でき、2年間で卒業免許が貰える」「給料も支給される」との甘言・ウソに騙され、名古屋行きを「志願」した朝鮮女子勤労挺身隊の存在とそのうち少なくとも6名の少女が東南海地震で犠牲になったという事実を知りました。このとき、私の娘は朝鮮の少女と同じ14歳中学2年生、目の前にいる高校生もまた、ほぼ同年齢でした。もしも、娘や高校生がこのような目に遭ったらと思うと、胸が締め付けられる思いがしました。そしてこの「思い」が、高校3年時に記憶した「60年安保」以来の私にとって第2の「エポック」となりました。そして、私の教育実践は、広島、長崎、空襲という被害事実が中心でしたが、教職員組合や歴史教育研究会からも多くを学び、侵略戦争と植民地支配という加害行為がなければ被害はなかったという視点に軸足を移しました。

世界史も日本史も近現代史は、戦争の歴史と言っても過言ではありません。その戦争を教える際、戦争に至る過程(誰がどういう理由でどのような手続きを経て)を重視することの重要性が、様々な研究会での討論や自分の教育実践をとおして解ってきました。そしてこの方法論は、戦争だけでなく社会科教育全般に通じるものだとの確信を深めました。

この方法論から「安保法制」の原点である日米安保条約の成立過程を通して、その本質に迫りたいと思います。1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで開催された講和会議に参加した全権代表の吉田茂首相と池田勇人蔵相ら5人の代表団が調印しました。ところが講和条約とは対照的にその数時間後、日本の代表団はサンフランシスコ郊外の米軍第6軍下士官クラブに連れて行かれ、日米安保条約の調印を迫られたのです。署名したのは吉田首相ただ一人、日本の他の代表は、それまで目にすることもなかった日米安保条約に署名するわけにもいきませんでした。こうした屈辱的な手続きをへて日米安保条約はスタートしたのです。

1960年の安保条約改定への経過はどうだったのでしょうか。1960年5月19日午後10時半過ぎ、岸首相は、衆議院特別委員会に500人の警官隊と右翼などの屈強な青年たちを公設秘書として導入して、質疑を打ち切り、採決を強行しました。そして翌5月20日、午前0時10分過ぎ、改定安保条約は衆議院本会議において、自民党単独でいっさいの討論なしで強行採決されました。岸首相は、国民の反対闘争の空前の盛り上がりに恐れをなし、5月15日と18日に赤城宗徳防衛庁長官に対して陸上自衛隊の治安出動を要請し、東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたましたが、石原幹市郎国家公安委員会委員長が反対し赤城防衛庁長官も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避されたのです。こうした恐るべき事態が、国会の舞台裏で用意されていたのです。

2014年7月1日、臨時閣議でこれまでの政府解釈を強行に変更した「集団的自衛権」容認の閣議決定。そして、私たちの記憶に新しい2015年9月19日、未明の「安保法制」の強行採決は、1960年5月19日、20日のクーデター的強行採決の再現そのものでした。

このような民主主義とは無縁の姑息な手続きで「でっち上げられた」安保体制・安保法制は、私たち国民の平和と安全を守るためのものであるはずはなく、平和・民主主義・人権を基本的理念とする日本国憲法と真逆のものです。安倍首相はこれまで法案を強行する毎に「時間がたてばご理解いただける」と自らの暴走を正当化する常套文句で、国民の批判をはぐらかしてきました。

安保法制は、その後の南スーダンへの自衛隊派遣、オスプレイ配備拡充、F35の爆買い、イージスアショア配備計画(これは断念)、辺野古の埋め立て強行、アメリカ中央海軍のペルシャ湾国際海上訓練(2019年10月~11月)への掃海母艦「ぶんご」と掃海艇「たかしま」の派遣、2月の護衛艦「たかなみ」の中東派遣など、その後の事態は、 安倍首相の説明とは真逆の安保法制の危険性・違憲性をますます明らかにしています。

憲法9条は、日本の侵略戦争と植民地支配の犠牲者への謝罪であるとともに、これから未来を生きる子どもたちに平和的生存権を保証する約束事でもあります。退職後16年余りが経ちましたが、毎年のように開かれるクラス会、同窓会で教え子たちに私は、挨拶で「憲法九条」に触れます。そして彼らから帰ってくる拍手に胸を熱くします。「世界史で習った“過去に目を閉ざすものは、現在が見えなくなります。”というバイツゼッカー西ドイツ大統領(当時)の言葉をこれからも忘れません」との卒業式答辞(1992年3月)、名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟で私が証言に立った名古屋地裁法廷(2003年3月26日)に30数人の生徒が制服姿で傍聴に駆けつけてくれたこと、この法廷が翌日の中日新聞コラム「中日春秋」で、「教えるとは希望を語ることという詩人アラゴンの詩が浮かぶ場面であった」と紹介され、その記事を読んだ卒業生から励ましの手紙や電話をもらったことなど思うと、「教え子を再び戦場に送るな」を座右の銘として教師を続け、父親を続け、市民として生きてきた教え子らからのこうしたメッセージに、私は背くわけにはいきません。

さる4月26日、78歳で急逝した同い年の畏友、森英樹名古屋大学名誉教授の言葉を借りるなら「安保法制は壊憲の最たるもの」です。憲法の目線からすれば、行政府、立法府が暴走するとき、憲法判断の最終的判断者であり三権分立の立場から最も憲法尊重擁護義務を強く求められ独立を保障された裁判所において、憲法判断を回避することなく、その暴走に勇気を持って阻止してくださることを強く求めます。以上で私の陳述を閉じます。

※陳述書には掲載されませんでしたが、原稿を用意するにあたって参考にした文献は以下の通りです。

  • 保阪正康『60年安保闘争』講談社現代新書1961年
  • 孫崎享『戦後史の正体』創元社2012年
  • 末波靖司『日米安保の成立と暗部―それは占領の継続だった』 月刊「平和運動」20年5、6月号 日本平和委員会
  • 内藤功『1960年安保闘争から60年―国民のたたかいと安保条約廃棄の展望』月刊「平和運動」同上