3・1ビキニデー集会 地域・世代を超えて運動を広げよう

3月1日、71回目となる「ビキニデー集会」がおこなわれました。

3/1 愛知からの参加者

集会では、最初に中野焼津市長がビデオメッセージで、続いて日本被団協を代表し、金本さんが来賓挨拶をしました。その後、参加した10名の被爆者に花束が贈呈されました。

焼津中央高校合唱部の部員も参加したコーラスは、思いのこもった美しいハーモニーの素晴らしいものでした。

特別企画では、原水爆禁止世界大会運営委員会共同代表の野口さんが、「これまでに世界で2060回をこえる核実験がおこなわれたが、核開発は国益の保持のための抑止力維持で最高の軍事秘密なので、その被害も隠蔽される」と指摘。被害の全容解明と救済を求めました。長崎総合科学大学の大矢名誉教授は、長崎で指定地域外にいたために被爆者と認められない全ての「被爆体験者」の救済を、また、高知・太平洋核被害支援センター共同代表の濱田さんは、ビキニ被災船員救援訴訟として取り組んでいる二つの裁判への支援を訴えました。

福島でおこなわれたピースエッグの実行委員長を務めた円谷さんは、「復興とは何かを全国のみんなと考えたい」と語り、「声をあげ続けてきた人がいたから、自分たちも声をあげられる」との発言は嬉しくなりました。

兵庫県の代表は、共同を広げ、姫路市長など7市長も含め33名の連名で署名推進のアピールをし、「兵庫では市役所に署名コーナーを設けている所もある」と話しました。「高校生の描いた原爆の絵を小学校の5、6年生に見せると、保護者会まで貸してほしいと言われ、中学でも展示することになった」という報告もありました。さらに、非核神戸方式も50年となることから、「この神戸方式を力に非核の日本を」と決意を語りました。

エバーグリーン静岡の高校生も高校生署名を家族、親戚、先生、友達に広げたことや、焼津のバラを沖縄に送ったら咲いたバラの押し花が送られてきたというエピソードを語りました。

「非核日本キャンペーン」に旺盛に取り組み、核禁条約を署名・批准する政治を実現しよう

被爆80年、ビキニ被災71年となる今年のビキニデー原水協集会には約1,000人が集まり、愛知からは3日間でのべ144人が参加しました。

集会では、「『非核日本キャンペーン』を草の根で展開し、核兵器禁止条約を署名・批准する政治の実現に向け世論と運動を広げていこう」と提案。海外からも運動が報告されました。米国からは「連邦議会議員43人が反核の運動に賛同しウイングを広げている」、また、韓国からは「戒厳令を市民の力でストップさせ、大統領を弾劾するために力を尽くしている」と報告がありました。スペインからは、「被爆者を招いた集会にカタルーニャ地方の大統領が参加するなど、いたるところで世論の変化を作り出してきた」などの発言がありました。

東富士演習場調査行動 富士を撃つな――日米安保条約の現在地

2/27 東富士演習場

パン、パン、パンと、突如響く機関銃や小銃の発射音。意外と乾いた音です。続いて大きな破裂音は155㎜榴弾砲が発射された音で、直後に富士のすそ野に着弾の光と噴煙が見えます。あちこちに設置された電光掲示板の「危険 実弾射撃訓練中」の文字が不気味です。

2月27日、「3・1ビキニデー」に先駆けて、オプショナル企画「東富士演習場調査行動」が行われました。案内役の御殿場平和委員会・渡辺希一事務局長が、解説を務めます。参加は7人と少ない人数でしたが、参加者の顔も真剣そのものです。

陸上自衛隊東富士演習場は、御殿場、裾野、小山にまたがる8807㏊もの広さで、富士学校(富士駐屯地)、滝ケ原、駒門、板妻の駐屯地を抱え、117㏊に及ぶ米軍キャンプ富士が居座っています。キャンプ富士の広大な土地と立派な建物、共用道路を挟んだ自衛隊基地の建物のなんと貧相なこと。参加者の一人が、「まるで掘っ建て小屋」と表現しました。駒門駐屯地には東名高速道路に通じる道があり、東京で変事が起これば、自衛隊車両がこのゲートを使って東京へ駆けつけるのです。また、演習場の多くは私有地や市の公有地で、市道は自衛隊、米軍と共用で、軍用車両が我が物顔で走っています。

  御殿場平和委員会では、自衛隊からの情報収集や米軍横田基地のある羽村市平和委員会と情報交換するなど、丹念に調査行動を行っているそうです。この日も、インド軍との共同訓練や米軍のC130が10機で自衛隊の降下訓練が予定されていました。東富士でのインド軍との共同訓練は初めてのことです。まさに、日米安保条約の現在地を、目の当たりにした思いがしました。

墓参行進に参加して

焼津に行くのは去年の全国高校生平和集会以来で2回目。3・1ビキニデーには初めて参加しました。

朝早くからたくさんの人が集まる熱気のなかで、墓参行進を歩き、久保山愛吉さんのお墓にお参りして、追悼の思いや、核兵器をなくさなければならないという思いが強まりました。

核兵器禁止条約の締約国会議に参加しない日本政府の後ろ向きな姿勢を見ていると暗い気持ちにもなりますが、それでも、必ず核兵器はなくさなければいけないし、なくしていけるという確信が深まりました。

久保山愛吉さんの「核兵器の被害者は私を最後に」という願いを胸に、戦後80年の今年、核兵器をなくそうという声を広げていきたいとあらためて感じました。

3・1ビキニデー 第1分科会 合言葉は「非核日本キャンペーンを大運動に」

3・1ビキニデー日本原水協全国集会は、全体集会に続いて7つの分科会に分かれ、討論を深めています。参加した90人のうち30人が初参加という第1分科会では、「『非核日本キャンペーン』をひろげ、核兵器禁止条約に参加する日本を」をテーマに交流しました。

問題提起を行った安井正和日本原水協事務局長は、与党の過半数割れで「新しい政治プロセス」が始まっているとした全体集会での「基調報告」を強調して、長崎県議会での「核禁条約批准を求める意見書」採択や富山県議会に招かれて日本被団協の代表理事である金本弘さんが被爆体験を語るなど、各地で変化が起きていると指摘します。

討論には導入発言を含め16人が発言。各地の運動を交流しました。33自治体と県で100%意見書採択をした岩手県に、19全市町村で意見書採択ゼロの山口県代表は「陳情に意義あり、採決を求めていく」と決意を述べます。4町の町長の署名入りの署名用紙で運動を広げる、岐阜県の取り組みがユニークです。アメリカから参加のジョセフ・ガーソン氏も討論に参加、「ファシストによる反革命」とトランプ政権の危険性を指摘する一方で、市民による運動が始まっていると語っています。

最後のまとめでは、「ノーベル平和賞受賞をバネに、垣根を作らない運動」の重要性と、「正論を語っているのは私たちの側」が強調されました。

2/29 静岡市

第2分科会 反核平和の国際連帯が求められる

第2分科会は、「非核平和のアジアを~軍事同盟強化反対、核抑止力論を打ち破ろう」で、日本、アメリカ、韓国の代表と参加者で交流を行いました。

基調報告を行った千坂さんは、在日米軍の核兵器の使用について日本が意見を伝える仕組みが初めて明文化されたことや、核爆撃機や戦闘機による共同演習が強まっていることなど、核戦争体制強化の実態がこれまでと違う段階にきていることを指摘。5年間で43兆円の大軍拡も、27年度以降にはさらなる強化が日米政府間で勝手に約束されていて、平和のアジアを考えた時に一番の脅威だと強調しました。

韓国のハムさんは、ロシアと北朝鮮の軍事協力や、米韓の軍事演習が質量ともに強化され、宇宙にも広がるなど、その深刻さを語ったうえで、これをやめさせる反核平和の国際連帯が切実に求められている、と語ります。米国のガーソンさんは、トランプ政権の中国、北朝鮮、アジア地域の態度を克明に分析。特に米中対立に至っては、中国が東アジア地域の軍事力で米国を圧倒しており、もし戦争に至れば甚大な影響を及ぼすと指摘しました。

分科会は、これらの危険性をストップさせるうえでも、「非核日本キャンペーン」が重要であると確認しました。

第7分科会 戦争の話を風化させてはいけない

第7分科会「青年のひろば」には44人(うち初参加22人)が参加しました。

はじめに、被爆証言と訴えを被爆者の佐久間邦彦さん(広島県原爆被害者団体協議会理事長)が行いました。佐久間さんは結婚を考えた相手の親から被爆者であるということで差別された経験を語り、「原爆はその時のケガだけではなく、一生被害や影響が続くもの」と被爆の実態と恐ろしさを訴えました。高齢にもかかわらず、約30分のあいだ立ったまま話をする姿に圧倒されました。

続いて、嶋田侑飛さん(日本原水協全国担当常任理事)が、被団協のノーベル平和賞受賞の意義と、1月下旬に被爆者と共にスペインとフランスを訪問して証言活動を行い、「核なき世界」の実現を呼びかけたことを報告しました。

後半のグループトークでは、感想や地元でやりたいことなどを話し合いました。「戦争の話を風化させてはいけない。戦争はあってはならないことだ、と少しでも多くの人が思うことが大事だ」などの感想があり、有意義な会となりました。

分科会終了後には、静岡駅の地下道で、日本政府に核兵器禁止条約への参加を求める署名活動を行いました。静岡県原水協や分科会に参加した青年学生など16人が参加し、帰宅途中の高校生や学生などから61筆の署名を集めることができました。

特別寄稿 3・1ビキニデーへの思い入れ

愛知県平和委員会副理事長 三浦米吉

第五福竜丸

1954年3月1日、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に巻き込まれて被ばくした日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の元船長、筒井久吉さんが、2024年6月4日に名古屋市の自宅で老衰のため亡くなりました。92歳でした。筒井さんの姉が私の叔父の奥さんで、私につながるのです。

筒井さんは、療養後に親戚である私の実家(幡豆町東幡豆)に寄ったと考えられます。当時、私は小学生であり、話は記憶にありません。筒井さんは、その姉が亡くなった時も、葬儀に参列しています。

この記事を書くため調べた結果、死亡記事は11月8日に各種メディアで報道されていました。筒井さんは「第五福竜丸事件」の後、愛知県内の水産試験場に勤め、「調査船に乗って海外に行くなど、とにかく海に関わる人だった」と報道されています。

私は平和運動に携わるようになって以降、3・1ビキニデーには思い入れをもって参加し、協賛企画の「ビキニ被災の全容解明をめざす研究報告集会」で学んできました。被ばく当時、第五福竜丸はマーシャル諸島近海にいましたが、アメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業しており、アメリカによる傍受を恐れて、救難信号(SOS)を発することなく焼津港に帰ってきました。ビキニ事件後も南太平洋では核実験が行われており、放射性降下物は日本にも到達していることを高校生が調査していることが研究集会で報告されたこともありました。また、第五福竜丸以外にも約千隻の漁船が被災しています。高知県では、漁船員のビキニ被災国家賠償訴訟が取り組まれています。マーシャル諸島の住民も被ばくしており、ビキニデー集会には、島からも参加して惨状が報告されているのです。